音源紹介

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日本の子供の歌発達史 ~「わらべうた」からSP盤の終焉まで~

音楽文化研究家・長田暁二

(お聴きいただく音源の多くは、作曲時期にかかわらず、昭和期に発行されたものです)

 「童謡」という文字は中国から伝えられたもので、『列子』に既に この文字がある。日本では『日本書紀』に「童謡あり、蘇我入鹿の陰謀を予言してうたう」と書いてあるのが最初だ。この頃の童謡は<どうよう>と音読したのではなく、<わざうた>と訓読されたものであり、その後のわらべうたとも、現在の童謡とも意味が違う。

 明治42(1909)年に出版された『日本民謡大全』(童謡研究会編/ 春陽堂、明治42年9月 )<注1> には、大人の民謡とわらべうたが半々位に収められている。これは、わらべうたも民謡なりという考え方に基づくものであろう。古い時代から自然に生まれ、素朴に伝承されて来た「わらべうた」は、民族性の純粋さにおいて民謡と相通ずるものがある。

◆明治期の唱歌

 明治5(1872)年8月に学制が公布され、「修身」「読本」「算術」などとと もに小学校に「唱歌」、中学校に「奏楽」の教科が設けられた。明治14(1881)年、文部省内の音楽取調掛が小学校の授業に用いる『小学唱歌集』を編集した。当時の文部省は唱歌教育を修身科の延長のように考え、徳性の涵養、情操の陶冶という教育精神だった。伊沢修二と米国人メーソンが指導した小学唱歌は児童の生活や感情の純粋性に乏しく、「わらべうた」や大正期の「童謡」とは本質的に違うものだった。だが、広く子供たちに歌われた点では第一だったかも知れない。

 学校教育における教材は外国の民謡、歌曲、賛美歌が多く、日本人の西洋音 楽に対する基礎が固まった。「庭の千草」や「故郷の空」など、外国曲にはめる日本語詞には甚だ苦労工夫したようだ。音楽取調掛は明治20(1897)年、東京音楽学校と改称。同年の『中等唱歌集』( 深沢登代吉編/東京音楽学校、明治22年) は半数が合唱曲になっていて、そこに中学校の教材らし い目新しい面を見せた。

『庭の千草』(楽譜は『小学唱歌集. 第三編』(文部省、明治17(1884)年)に「菊」というタイトルで所収)を聴く。日本語詞は里見義による。

『故郷の空』(楽譜は『明治唱歌. 第一集』(中央堂、明治21(1888)年)に所収)を聴く。日本語詞は大和田建樹による。

『小学唱歌集』初編 標題紙と緒言

『小学唱歌集』初編 標題紙と緒言

 明治末期から大正期にかけて、文語体の従来の唱歌では難し過ぎるので、口 語体で綴り児童がすぐ理解できる言文一致唱歌の興隆があった。その始まりは明治34(1901)年7月 発刊の『幼稚園唱歌』(共益商社書店、明治34年)で、東くめ作詞、瀧廉太郎作曲の「お正月」「水あそび」「鳩ぽっぽ」などが発表された。田村虎蔵(1873-1943)、納所弁次郎(1865-1936)は石原和三郎(1865-1922)、巌谷小波(1870-1933)、佐佐木信綱(1872-1963)らと組んで言文一致運動を 推し進め、お伽話をテーマとした多くのバラードを発表し、家族一緒に歌える喜びを全国的にした。

石原和三郎の 作詞による代表的な唱歌を聴く

巌谷小波の作詞による代表的な唱歌を聴く

佐佐木信綱の作 詞による代表的な唱歌を聴く

田村虎蔵先生記念刊行会『音楽教育の思潮と研究』目黒書店, 昭和8(1933)年

田村虎蔵肖像
田村虎蔵先生記念刊行会 『音楽教育の思潮と研究』 目黒書店、昭和8(1933)年

『巌谷小波名話集 : 童話』東洋図書, 昭和14(1939)年

巌谷小波肖像
『巌谷小波名話集 : 童話』 東洋図書、 昭和14(1939)年

大槻三好著『石原和三郎先生 : 童謡の父』群馬出版社, 昭和30(1955)年

石原和三郎肖像
大槻三好著 『石原和三郎先生 : 童謡の父』 群馬出版社、昭和30(1955)年

 明治34年、『中学唱歌』(東京音楽学校、明治34年)では日本人創 作になる作品が登場、瀧廉太郎作曲の「荒城の月」「箱根八里」などが大いに普及した。しかし明治35(1902)年、教科書の販売競争にからんで贈収賄事件が発覚、以後すべての教科書は文部省編纂による国定となった。『尋常小学読本唱歌』(国定教科書共同販賣所、明治43年)、『尋常小学唱歌』(国定教科書共同販賣所、明治44年)では詞・曲ともに長足の進歩、発展、成長を遂げた。例えば高野辰之作詞、岡野貞一作曲の名コンビの手になる「春の小川」「朧月夜」「故郷」など、珠玉の作品が現代に伝えられた。

◆大正期の童謡運動

 大正7(1918)年7月、鈴木三重吉(1882-1936)によって、児童文学運動の機関誌『赤い鳥』が創刊された。文部省唱歌が、徳性の涵養を強調したため堅苦しいものが多く子供の心情とは関係のないことに対する反発から"赤い鳥童謡運動"が興ったのである。我が国のように1920年代という極めて短い一時期に優れた詩人、音楽家が純粋に芸術的意欲に燃えて、子供のために沢山の歌を創作した歴史的事実は他国に例がない。『赤い鳥』の中心的存在の北原白秋(1885-1942)は 「新らしい童謡は根本を在来の日本の童謡に置く。日本の風土、伝統、童心を忘れた小学唱歌との相違はここにあるのである」<注2> と『赤い鳥』の創刊に際してはっきり示した。特に、大正8(1919)年5月号に曲譜を掲せた「かなりや」(西條八十作詞、成田為三作曲)の反響は大変で、たちまち全国に広まったという。八十は、その後も鈴木三重吉の求めに応じ、「お山の大将」などの傑作を残した。詩人・北原白秋、音楽家・山田耕筰(1886-1965)は、「この道」「からたちの花」「ペチカ 」「待ちぼうけ」など、童謡というより歌曲や抒情歌といえる素晴しい芸術的作品を世に出した。彼らの作品が幸運に恵まれたのは、日本を代表する名テナー・藤原義江(1898-1976)が好んで歌った ことにもある。

『赤い鳥』で発表された童謡を聴く

 鈴木三重吉が白秋や八十に『赤い鳥』という舞台を与えて作品を発 表させたように、齊藤佐次郎(1893-1983)は『金の船』という舞台を野口雨情(1882-1945)に与え、白秋、八十と競った。雨情は、昔からある古いテーマを東洋風で神秘的な抒情の世界に仕立て、風雅な民謡タッチの童謡を書き表した。その結果、「七つの子」「十五夜お月さん」「青い眼の人形」「證城寺の狸囃」などのヒット作品が続々と出た。本居長世(1885‐1945)、中山晋平(1887-1952 )、藤井清水きよみ(1889-1944)などの作曲家が雨情の詩の理解者だったことも幸運だったとい える。

『金の船』 (後に『金の星』と改題)で発表された童謡を聴く

 昭和2(1926)年、日本ビクターが創立され、翌年、同社の専属になった中山晋平のメロディーはなだらかで歌いやすく、しかも日本的な情緒が盛り込まれている。彼は独特の囃しことばを生かす名人だった。「證城寺の狸囃」は雨情の"どんどこどん"という土俗的な囃しことばを"ポンポコポン"とリズミックで明るいハイカラな囃しことばに改変している。「砂山」「てるてる坊主」「アメフリ」「あの町この町」など民謡音階に乗せたメロディーは、短調の歌さえ明るいのである。

 本居長世は作曲にあたって原作の言葉を重んじ、アクセントに忠実 なメロディー作りをした。ピアノの名手だったから、伴奏の美しさが作風を特色づけた。「赤い靴」「俵はごろごろ」「通りゃんせ」「めえめえ児山羊」など不朽の名曲を沢山残している。

 そのほか、弘田ひろた龍太郎(1892-1952)は「靴が鳴る」「雀の学校」など幼児童謡に名曲を残すと共に、「叱られて」「浜千鳥」などピアノ伴奏の流麗な抒情歌を発表した。「花嫁人形」「ねんねのお里」などメランコリックな美しい旋律は杉山長谷夫(1889-1952)が作曲した。昭和9(1934)年4月からポリドール専属となって活躍した草川くさかわしん(1893-1948)は、「ゆりかごのうた」「春の唄」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」など唱歌スタイルの明るい長調に特長があった。

◆昭和期の唱歌、子どものうた

 昭和に入り、満州事変から太平洋戦争終結までは、次第に国家主義的な愛国 思想、神道日本の思想に基づく国民学校教材が作られた。昭和16年の『ウタノホン』上・下(文部省, 昭和16(1941)年)、『初等科音楽』4冊(文部省, 昭和17(1942)年)は、音楽を通じて国民感 情を統一させる方向に加担して行った。

『ウタノホン』収録曲を聴く

『初等科音楽』収録曲を聴く

『ウタノホン』下 表紙

『ウタノホン. 下』 表紙

『初等科音楽』第1, 標題紙

『初等科音楽. 第1』 標題紙

 一方、電気の普及は放送・レコードの発展を促した。コロムビア、ビクター 、ポリドール、キングレコード、テイチク、タイヘイは作詞・作曲家や童謡歌手を専属にして新曲作りを競った。レコードと放送の相互乗り入れは、今まで他人から口伝に教わったりして、曖昧や朧気の記憶の中にあった大正時代の童謡を子供達が正しくはっきりと覚える手段となった。「てるてる坊主」「夕日」「俵はごろごろ」などがリバイバルされ、子供の生活の中に溶け込んでいった。「ないしょ話」「可愛い魚屋さん」「かもめの水兵さん」「花かげ」などの新曲も巷に流行歌の如く流れた。童謡制作のイニシアチブをレコード会社が取るようになり、童謡豆スターも大活躍した。中でも声がきれいで歌い方がかわいかったビクターの平井英子(1918- )が一世を風靡し、歌とお話で綴った『茶目子の一日』『毬ちゃんの絵本』(何れも佐々紅華作詞・作曲)はベストセラーを記録した。

平井英子『茶目子の一日』を聴く

平井英子『毬ちゃんの絵本』を聴く

 レコード童謡の活況は昭和16(1941)年頃まで続いたが、子供も"少国民"と 呼ばれ一億総進軍の体制の中に組込まれていった。「少国民愛国歌」「兵隊さんよありがとう」「僕は軍人大好きよ」など、子供の歌も軍歌色一色に塗りつぶされていった。間もなく、戦局の激化により童謡作曲家や豆スターも地方に疎開した。

 戦後、NHKラジオでは、昭和24(1949)年8月から幼児を対象とした『うたの おばさん』をスタートさせた。作詞ではサトウハチロー(1903-1973)、小林純一(1911-1982)、まど・みちお(1909- )など『赤い鳥』の系譜につながる人びとが協力し、作曲は東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)出身の中田喜直(1923-2000)、団伊玖磨(1924-2001)、芥川也寸志(1925-1989) などの新進を起用して、新しい幼児の歌を沢山発表した。しかし、30年代後半からテレビの影響力の前に影が薄くなり、昭和39年(1964)春をもって打ち切られた。

 〔脚注〕

 <注1>国立国会図書館では、大正15(1926)年の改訂版を所蔵、インターネットにて公開中。

 <注2>北原白秋著「童謡私鈔」『詩と音楽』第2巻1号(1923年1月 ). pp2-13.

(音楽文化研究家・長田暁二・ おさだぎょうじ)
2013年2月4日記

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