音源紹介

←音源紹介一覧へ戻る

※本文中に【国立国会図書館/歴史的音源配信参加館内公開】と記載されている音源は、
国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館で聴くことができます。



詩を聞くこと 朗読詩音源のたのしみ

国際日本文化研究センター教授・坪井秀人

 録音がなかった時代には、耳で聞く文学としての朗読文芸が公共的なものとして成立したのは朗読会という一回限りの空間においてであった。日本の近代詩の場合、19世紀末葉に外山正一らが新体詩朗読について提唱を行ったあたりがその嚆矢と考えてよさそうだが、朗読会としては、雑誌『明星』を刊行していた与謝野鉄幹主宰の新詩社が1902年に行った朗読研究会・韻文朗読会の企画が重要なものであろう。

 このような詩歌の朗読がメディアに乗って流布するようになるのはレコードが生産流通する時代になってからである。当初のレコードはもちろんSPレコードだが、それに収録された詩人や歌人の自作朗読がのちにLPレコードやカセットテープそしてCDとして復刻・販売されたことがある。だがそれらで復刻されて紹介されたのは、もともとの音源のごく一部にすぎない。〈歴史的音源〉での収録状況からわかるように、戦前戦中を通して数多くの声の文学が録音され、レコードという商品として、それを聞こうとした人々の手許に届けられていたのである。

 これらの詩歌朗読が具体的にどのように受容されたのかはなかなか見えにくいが、重要なことは、多くの朗読が放送用に録音されたことであろう。録音はラジオを通して電波に乗り、広範に聴取された。日本でも後発の音声メディアであるラジオ放送がレコードの普及と相補的な関係にあるが、それは詩歌朗読の録音/放送においても当てはまる。次いで浸透性のある空間としては学校の教育現場が挙げられるし(国語教育用レコードが多数作られたこともこれに関わる)、さらには地域の集まりで聞かれることもあったろう。

 戦前は蓄音機もラジオも一家に一台備えられていたわけではない。複数/集団による聴取体験の比重が大きかった。音読、朗読の文化は、家庭や学校、地域などの共同性と深く結びついて発展してきたと考えるべきであろう。こうした文脈が用意されていたからこそ、戦時期になると詩人たちは「愛国詩」を粗製濫造し、日米開戦直後からNHKが始めた愛国詩放送にも協力して、戦争遂行のプロパガンダの役割を積極的に担っていくことにもなったのである。〈歴史的音源〉でも聴くことのできる高村光太郎「最低にして最高の道」、蔵原伸二郎「み軍に従ひ奉らん」、西村皎三「かくして吾等成長せり」、岩佐東一郎「ラジオよ」、尾崎喜八「少年航空兵」といった「愛国詩」が、動員された丸山定夫、石黒達也、山本安英といった俳優たちによって朗読され、録音され、そしてラジオからも放送されたのであった。今回は紙幅の都合でこの「愛国詩」については取り上げていないが、それが音声メディアに組み込まれていく歴史的経緯と構造については拙著『声の祝祭 日本近代詩と戦争』(名古屋大学出版会、1997)に詳述しているので、参照いただきたい。

1. 歌人・俳人・詩人たちの自作朗読(与謝野晶子、太田水穂、斎藤茂吉、土屋文明、北原白秋、高浜虚子、佐藤春夫、河井酔茗、西条八十、川路柳虹、萩原朔太郎、室生犀星、堀口大学など)、コロムビア、1936─1940

 上記したようにこれらのうちの一部はLPレコード時代以降も何度か復刻されてきたので、幾つかは聴いたことがある方もいることだろう。歌人は、和歌朗詠の伝統があるので(それを踏襲しなくとも)いずれの朗読も歌い上げる・・・・・傾向がある。だんだん朗詠が歌に変わっていく太田水穂の朗読も興味深いが、とりわけユニークなのは与謝野晶子だろう。彼女はほぼすべて自分なりの朗読の定型を作ってそれにしたがって詠んでいる。具体的には下句の後半、第4句の第4音節から急に声を高く上げるのだが、それを行うために彼女は意識的に音節がわかるようにほぼ等時拍で詠んでいることがわかる。

 詩については、佐藤春夫などが典型的だが、やる気のないようなぶっきらぼうな朗読が目につくのが面白い。詩で味わい深いのは室生犀星。朴訥な語りから詩人の人柄が伝わってくる。河井酔茗の詩は文語定型詩で朗読もほぼ朗詠に近く、感情高く歌い上げる。西条八十の朗読には2種あるが、文語と口語の詩とで語り口を変えている。近代詩の朗読は、短歌朗詠から自立すべく、口語詩が中心化するにつれて、次第に形を整えていったとみることが出来る。

与謝野晶子

与謝野晶子
「近代日本人の肖像」より)

室生犀星

室生犀星
(『哀猿記』1935年2月)

2.照井瓔三の詩歌朗読(島崎藤村、三木露風、石川啄木の作品)、コロムビア、1935.4, 1936.6

照井瓔三

照井瓔三(瀴三、栄三、詠三)の朗読風景。
島崎藤村「おさよ」「ふと目はさめぬ」(コロムビア 33287)付帯のリーフレット所載。同リーフレットには照井が「朗読者の言葉」という文章を寄せており、「このディスクは私の新らしい試みとして、詠嘆的朗読法に依つて表現したものである」という言葉がある。(画像提供:筆者)

 照井瓔三(瀴三、栄三、詠三)は1930年代から40年代にかけての近代詩朗読の運動において大きな役割を果たした人物であり、単に朗読家であったばかりでなく、『詩の朗読 ──その由来・理論・実際──』(白水社、1936)、『国民詩と朗読法』(第一公論社、1942)といった著作で朗読の理念や技術について、恐らくは日本で初めて体系的に整理し提案を行った理論家としても、きわめて重要な存在である。照井はフランスで名歌手パンゼラに師事した声楽家で、フランス歌曲の日本への紹介者であったこともあり、その高い声はまさに美声で、時にこわれそうなほどに繊細な、フェミニンな美しさを湛えている。

 例えば島崎藤村の「おくめ」では半ばの「しりたまはずやわがこひは」の節からテンポを落として高唱し、聴く者の胸に強く訴える(因みにこの詩や三木露風の詩の朗読で巧みなヴァイオリン伴奏を弾いている黒柳守綱は新交響楽団[現NHK交響楽団]のコンサートマスターをつとめた演奏家で、俳優、黒柳徹子の父君である)。いずれも朗読を芸術の域に高めようと努めた照井の志の感じられる優れた朗読である。彼は宮沢賢治や高村光太郎の詩の紹介者であり、特に高村とは深い交流関係を持った。また、声楽家として山田耕筰の楽劇『堕ちたる天女』の初演に参加しており、その録音も聴くことが出来るのだが(コロムビア、1930.1)、録音の方はどうやら照井の声ではなく、彼が録音に来られなかったので山田自身が歌ってしまったといわれている(郡修彦「山田耕筰が「堕ちたる天女」を歌っていた!!」『山田耕筰の遺産』8解説、日本コロムビアCD)。照井は1945年5月の東京空襲で亡くなっている。

3. 「笛吹き女」深尾須磨子[作詞]/菅原明朗[作曲]/東山千栄子[朗読]、ビクター、1936.9

深尾須磨子

深尾須磨子
(『婦人文芸』第3巻第7号
1936年7月)

 深尾須磨子は1920-30年代に二度、いずれもソプラノの荻野綾子とともにパリに滞在。フルートを吹いていた深尾は名手マルセル・モイーズのレッスンも受けている。そうした笛吹きとしての経験から生まれた詩が「笛吹き女」。1928年に初出のこの詩にはすぐに橋本国彦がオーケストラとソプラノのために作曲し、翌年には荻野が独唱をつとめて初演している。のちに菅原明朗が1931年に作曲したのがこちら。フルート一本の伴奏を伴った朗読が一個の芸術として誕生した、記念碑的ピースである。東山千栄子の朗読のみならず、フルートの演奏もなかなか見事なのだが、奏者の記載はない。

4. 駐米大使斎藤博遺骨帰還の歌2種 歌謡「よくぞ送って下さった 斎藤大使遺骨礼送に対し米国へ寄せる感謝の歌」西条八十[作詞] /古関裕而[曲] /瀬川伸(独唱)ほか、コロムビア1939.6、AMBASSADOR SAITOS RETURN、Yone Noguchi(野口米次郎)[作詞]/山田耕筰[作曲]/宮川美子[独唱]、コロムビア1939.6

野口米次郎

野口米次郎
(『英語研究』第32巻第3号
1939年6月)

 レコードは詩人に童謡や流行歌などの作詞を担当させ、作詞した彼らに多大な収入をもたらした。ここで一つ目の歌謡の詞を書いている西条八十などはその代表格である。これは合州国政府が1939年2月に米国の地で亡くなった前駐米大使斎藤博への特別のはからいで巡洋艦アストリアを出して斎藤の遺骨を日本まで「礼送」したことに対する返礼の意味をこめた歌。バックの合唱が「よくぞ送って下さった。大米国よありがとう」と繰り返す。

 二つ目の英語の歌も同趣旨の作品。山田耕筰の作曲ということもあり曲はより格調高いが、英語の詞を1890年代に米国詩壇で活躍したヨネ・ノグチこと野口米次郎が書いていることが注目できる。この歌を収録したレコードのB面はODE BY YONE NOGUCHI DEDICATED TO CAPTAIN RICHMOND TURNER OF THE “ASTORIA”という、斎藤の遺骨をはこんだアストリア号のターナー船長に対するノグチの頌詩の朗読。来日したターナーや船員たちは日米友好ムード一色の中で歓迎された。真珠湾攻撃のわずか2年半前のことである。

(国際日本文化研究センター・坪井 秀人・つぼい ひでと)

ツイート

↑このページの先頭へ

←音源紹介一覧へ戻る

←トップページへ戻る