ラジオ・テレビジョン出現以前の大量伝達媒体としてのレコードの役割は画期的且つ重要なものであった。レコードと言う介在物を通して音声が時間・距離を問わずに世界中に拡散可能になり、情報の発信と取得に飛躍的な可能性が開けたのである。
政治に於けるレコードは、政治家の所信表明の手段として使用された。レコードの出現以前には音楽・芝居・寄席と同様に政治家の弁舌は、当人の演説会へ足を運ぶより他に聴く手段を持たず、政治家も精力的に演説会を行うより他に主義主張を伝える術を有さなかった。ところが、レコードの出現により遠隔地への伝達が可能になり、政治活動の一環としてレコードの録音が行われる様になった。新聞にて演説の要旨を視覚的に捉えるよりは、レコードにて聴覚的に捉える方が格段に効果的であり、声色・口調が大衆の知る処となり影響力に差異が生じたのである。
政治家の演説レコードは大正初期に出現し、初期のレコードは演説を全文録音した関係から組物になり高価且つ長時間が特徴であったが、記念品的な意味合いからも大いに普及した。
大隈重信肖像
『近世名士写真. 其1,2.』 近世名士写真頒布会、昭9(1934)-昭10(1935)年
後藤新平肖像
『近世名士写真. 其1,2.』 近世名士写真頒布会、昭9(1934)-昭10(1935)年
やがて、昭和初期にマイクロフォンを使用する電気録音が開始されると、鮮明な音質により演説の細やかな色合いまでが録音可能になり、利用価値が更に高まった。そして、レコード1枚に収まる所信表明が政治活動用に活用され、政治とレコードの密接な時代を迎えるに到った。やがて、戦時体制下では、記録としての役割を担う様になり、市販用の所信表明レコードに代わり、放送局の部内資料として重要な放送を録音してレコード化する方式により数多くの放送が記録された。戦後は市販用の所信表明レコードも、放送を録音した記録レコードも殆ど無いままに、政治とレコードは希薄な関係に移行する。
田中義一肖像
『現代代表的人物写真名鑑 政治家篇 第2編.』 帝国通信社,昭2(1927)年
永井柳太郎肖像
永井柳太郎 [述] ; 大日本雄辯會 編. 『永井柳太郎氏大演説集』 大日本雄辯會,昭和元(1926)年
東条英機肖像
国立国会図書館憲政資料室収集文書1142 歴代首相等写真
この音源は昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦にあたり日本放送協会(NHK)が放送した内閣総理大臣・東条英機の演説の録音である。演説の内容は、宣戦の詔勅、対米通牒全文とともに活字としてもNHKから出版された。
戦争とレコードは昭和前期に密接な関係が見られる。レコード出現以前の日清・日露戦争時代には、戦争を主題にした音楽は楽譜により普及が図られ、全国的に流行を見るに到った。レコード出現後は1931年の満洲事変まで平和が保たれ、明治時代の音楽作品や軍国美談のレコード化が中心で、現実世界とレコードとの連動は皆無に等しかった。
1931年以降も満洲事変勃発はレコードの題材とはならず、翌年の肉弾(爆弾)三勇士主題作品を各新聞社が公募し各社がレコード化したのを機に、戦争とレコードは密接な関係を有する様になった。即ち、大正末期から新作流行歌が各レコード会社の重要分野となったことに加えて、戦争関連作品をレコード化することも重要分野となったのである。この時代は速報性の順にラジオ・新聞・ニュース映画といった大量伝達媒体が整備されていた。戦争関連作品のレコードも速報性の上では遜色はあるものの重要視されており、残されたレコードにより戦局の重要性を知ることが出来る。例えば、前述の肉弾(爆弾)三勇士と同一日に行われた海軍航空隊と中華民国軍の空中戦を主題にした音楽作品もレコード化されており、これは日本の航空機による最初期の空中戦故である。
以後は、各社題材を求めて様々なレコードが制作されたが、1932年の五・一五事件を主題にした音楽作品と法廷劇のレコードが当局による検閲の端緒となったのは有名な話である。出版界に於ける検閲は以前から為されていたが、レコード作品は対象外であり、これが対象となった事は、レコードの社会的地位の向上とレコードに対する認識の変化が伺える。リットン調査団・国際連盟脱退と戦争に関連した題材は直ちにレコード化され、東郷元帥死去・日露戦争30周年も題材になり、1937年7月の中華民国との事変勃発以前にも戦争題材作品は散発的に発表されていた。
東郷平八郎肖像
『神代の絵話』国民道徳講演会,昭9(1934)年
事変勃発後は軍部が発表した報道の範囲で戦争題材作品は陸続と量産されており、戦捷を讃え、英雄を賛美する勇壮な作品の他にも、銃後の国民の悲哀を題材にしたものや戦線での苦労を主題にしたものも少なからずあり、戦争の多面がレコードにされている訳である。事変初期の通州事件もいち早くレコード化されており、各レコード会社が敏感に題材を求めていたことが判る。
タカラジェンヌ二人による歌。葦原邦子(1912-1997) は、17期生のトップスターである。
事変によるレコード産業停滞打破の為に政府が主導により制作した「愛国行進曲」は制作過程等に様々な批判が生じたが、各社競作によるレコード販売合戦は所期の目的を達成し、以後は競作物と新聞社・出版社の公募による戦争関連作品のレコードは確実な販売成績を約束する手堅い商品となった。
(A面)徳山璉・灰田勝彦[ほか]〈歌〉
(B面)陸軍戸山学校軍楽隊〈演奏〉
(A面)伴奏:吹奏楽
(B面)伴奏;ピアノ
事変の長期化による同工異曲作品は受手の支持が得られず、1939年から1941年にかけては却って流行歌に支持が集まる結果となった。事変下では物資不足等の物理的な面は深刻であったが、一国との大陸での戦闘故にレコードの関連作品には切迫感や悲壮感が希薄で、精神的な面での日本人の感情を表していると言えよう。
1941年末の全面戦争下では物資不足によるレコードの制作点数・製造枚数制限が厳しく、当初は戦局の進展に応じて勝利や凱歌を主題とした作品が連発されたが、戦局が攻勢から守勢に転じてからは、全滅(玉砕)関連作品が追悼歌として多数制作され、報道されない敗戦は無論題材とはならなかった。また、高税率によりレコードの価格は高騰して購入者も減り、音楽はラジオにての普及へと移行し、1945年には原料・労働力の不足に販売網の縮小によりレコード産業は休止を余儀なくされ、戦争とレコードの関係も終止符を打つに到ったのである。
(音楽史研究家・郡修彦・こおりはるひこ)