明治維新によって、それまで幕府や諸藩に抱えられていた能楽師達が職を失い、一時的に衰微した能楽界であったが、明治30年代になると華族や素封家が多く能楽師の素人弟子となった。彼らの面・装束・舞台の提供という後援によって能楽は江戸時代にも増して演じられるようになった。ただし他の演劇ジャンルとは異なり、素人弟子は自分の師匠や流儀の名人の演技を稽古の手本とするために舞台を観たのであり、現代のように純粋に能楽を芸術として鑑賞するのではなかった。謡を吹き込んだレコードも鑑賞して楽しむためのものではなく、その謡の稽古に励む素人弟子がこれを聴いて不明なところの参考にするためのものであった。明治後期に広く販売されるようになった謡曲レコードは、まだラジオのない時代、東京在住の名人の声を地方の人々に届けた。レコードによって謡曲師匠があまりいない地域や稽古場が少ない地域へも能楽が普及していくと同時に、これで稽古した人々がレコードに吹き込まれた東京の名人、多くは流儀の家元の謡い方に合わせて謡い、またそれを教えるようになった。これにより、各流儀内にあった謡い方の地方色が薄れ、東京の家元の謡い方に急速に統一されていった。また大学を卒業し、医師、会社役員、銀行員のように高収入を得る職についた知識人階級が大正期になり急激に勢力を増してきた。明治期の大後援者達に取って代わり、能楽の愛好者として多数を占めるようになった彼らは、能装束や面などの負担がない舞囃子や謡をするのを好んだ。また謡を囃子方に合わせて謡うようになっていった。
(画像は飯塚氏の提供による)
画像1:宝生新(写真・右端)
下掛かり宝生流ワキ方の宝生新は1870年生まれなので、このレコードは満57歳のときの発売となる。夏目漱石が高浜虚子から紹介されて宝生新に謡曲を習っていたのは有名である。この録音は謡曲《鉢木》のシテの出からシテとツレとの問答までであり、ワキ方である宝生新が舞台やラジオ放送では演じないシテ方の担当部分を謡っている。シテ・ツレの位を守り、美声で声量もある品格のある謡で、謡曲師匠としての力量も窺える名盤であると言える。
画像2:野口兼資
このレコードは昭和3年の発売だが、この時期はラジオ放送の視聴者が全国的に激増し、謡曲の謡い方も東京の家元の謡い方に統一され始めた頃である。囃子についても地方色が薄れ、東京の名人の演奏方法へ統一されてゆく過渡期にあった。宝生流シテ方である野口政吉は、この音源の中ではやや声を痛めているが、後年にみられる難声ではなくシテ謡も明瞭であり、川崎利吉や幸悟朗の全盛期の気迫のこもった掛け声も素晴らしい。現在の囃子の基礎となる歴史的名演の記録として貴重な音源である。
画像3:川崎利吉(写真・右)
昭和7年の演奏である。早舞であるから囃子のみであり、謡は入っていない。この金春惣右衛門は二十一世であり、惣右衛門襲名の翌年に当たる。現在の囃子の演奏方法が定まる時期の名演である。
画像4:松本長
松本長が亡くなる2年ほど前に録音されたものであるが、脇能らしい強さと張りがあり、決して美声ではないが滋味のある品格高い謡で、名人と称えられた理由がよく判る名盤である。彼は宝生流シテ方として高い評価を受けると共に、地頭としても宝生重英や野口兼資の名演を支えた。50歳代での急逝が惜しまれる能楽師であった。なお彼は俳人松本たかしと宝生流シテ方松本恵雄の父でもある。
画像5:梅若万三郎(写真・中央右)
このレコードは昭和8年発売で、初世万三郎が梅若流を離れ、観世流に復帰した後のものである。観世華雪は彼の謡の上手さを「たとえば『松風』のロンギの『灘の汐くむ憂き身ぞと人にや誰も黄楊の櫛』のつの下げ方が丸くやわらかで、これなど万三郎兄のように息のたつぷりある人でないと、とても謡えません。」と言っている(1)。この録音は万三郎が64歳になろうとしている頃だが、声量もあり脇能らしい強さと明朗さがあり、近代において舞のみでなく謡でも名人の第一人者であったことを示す名盤である。
画像6:宝生重英(写真・左)
昭和12年の録音である。録音当時の重英は満36歳だがすでに宝生流家元を継ぎ、謡の上手として若年から定評があった。大正9年10月に演じた能《敦盛》について坂元雪鳥は、「『敦盛』は重英氏で後シテだけ見ましたが、其謡ひぶりは頗る立派なものでした。此人の謡は将来余程面白いものとなるであらうと思はれます。量も大きいし強みも十分だし、是が洗練されたら現在の同流の誰の謡よりも、立派なものとなるだらうと思はれます。」と述べている(2)。この録音は宝生流の戦前の規範的な謡として声量も強みもある重厚な謡であり、歴史的な価値が高い音源である。
画像7:観世喜之(写真・右)
初世喜之については、栗林貞一がその追悼文で「手堅くて厭味の少ない、枯淡で、重厚で、そしてその底から滲み出る艶と、光と、潤ひをもつた氏の芸風が、観世流としての古格を備へた、本当の姿であると信じてゐたからである。」と述べている(3)。この録音の独吟でも、決して美声とは言えないが「枯淡で重厚な古格を備えた」謡が、母親の強さと哀れさを謡う《三井寺》に似つかわしく、素晴らしさが充分味わえる。
画像8:桜間金太郎(写真・左)
「鵜之段」は謡曲《鵜飼》の一部分で聞かせどころである。観世華雪は「私共の若い頃は今の能楽師のように囃子の稽古などいたしませんでした。(中略)囃子の稽古をしますと、自然、小鼓なら小鼓に合わせるように謡つてしまつて、つまり囃子謡になつて、謡本来のものが崩れるからです。(中略)ここという急所はやはりシテの決断が大切で、囃子方のいうことばかりをきく、というわけにはまいりません。」と言う(4)。金春流の桜間も同様のことを考えていたかどうかは分からないし、本録音は独吟なので囃子が入らず、シテが自分自身のリズムで謡いやすいが、特にこの鵜之段はゆったりとした謡いぶりで、シテの老人の心情と位を上品にかつ明瞭に表している。「謡本来の佳さ」を体現した名吟であると思う。
〔画像出典〕
〔引用文献〕
(椙山女学園大学・飯塚 恵理人・いいづか えりと)