田辺尚雄
(田辺尚雄 著『東洋音楽の印象』1941年)
歴史的音源には、いわゆる民族音楽の音源がいくつかある。それらのなかで、『東亜の音楽』(10枚組、日本コロムビア、1941年)、『大東亜音楽集成』(36枚組、日本ビクター、1942年)、『南方の音楽』(6枚組、日本コロムビア、1942年)の3つのSPレコード集に含まれる音源は、当時の日本の音楽研究が植民地主義に加担した様相を理解するための資料として貴重である。というのは、これらのアジア諸地域の音楽は、1940年代前半の大日本帝国の「大東亜共栄圏」建設という植民地政策の文脈において、第一線の音楽研究者たちが集めたものだからである。
これらのレコード集の監修には、いずれも田辺尚雄(1883-1984)という人物が関与している。田辺は、東京帝国大学理科大学物理学科を首席で卒業した西洋近代音響学の専門家であるが、日本音楽研究と東洋音楽研究の開拓者としても知られており、これらのレコード集を監修したときには、東洋音楽学会(1936年設立)の会長の座にあった。最初のレコード集『東亜の音楽』は田辺一人による監修で、続く『大東亜音楽集成』と『南方の音楽』は東洋音楽学会の若いメンバー達との共同監修である。
『東亜の音楽』は、ベルリン大学の民族音楽学者エーリッヒ・フォン・ホルンボステル Erich M. von Hornbostel のSPレコード集『東洋の音楽 Musik des Orients』(12枚組、カール・リンドストレーム、1928年頃)に対抗して制作されたものだ。『東亜の音楽』の解説書で、田辺はホルンボステルの『東洋の音楽』について次のように述べる。「外国人の異国趣味又は、怪奇(エキゾチック)趣味に過ぎない。」「之は欧米人の仕事としては無理もない話で、どうしても我々日本人の手に依って正しく観察した所の東亜音楽名盤集を作り上げなければならないことを痛感した[…]」(1)。
『東亜の音楽』は、当時の日本コロムビアの高級レーベルである「洋楽特青盤」として制作され、その附録の解説書も、A5判で12頁のコロタイプ印刷の図版+72頁の本文という贅沢な仕様である。レコードや用紙の統制が一層の厳戒態勢を敷かれていた時期に、このような形態のレコード集が発売されたことは、『東亜の音楽』が帝国政府の方針にぴったりと寄り添うものであったことを理解させてくれる。それを裏付けるように、大政翼賛会・陸軍省・海軍省からの推薦文が解説書の巻頭を飾っている(CD復刻盤では削除された)。発売に至った経緯としては、田辺が出版依頼をしたコロムビアがそれを拒んだため、田辺自身が政府や軍部に働きかけたという。
『東亜の音楽』には、「満洲」「中華民國」「蒙古」「ジヤワ」「バリ島」「泰國」「印度」「イラン(旧波斯)」(以上、田辺による表記)から20曲が収められている。各曲の音楽的な分析や歴史的文脈の考察については、それぞれの専門家による報告を待ちたい。
田辺は『東亜の音楽』に日本音楽を入れなかった。その理由として、「日本音楽は決して東亜音楽の一系ではなくて、一面に於ては東亜音楽の集大成であり、一面に於ては世界音楽の集成である。従つて日本音楽は東亜音楽とは別個に考ふべきものでなくてはならぬ。」(1)と解説書の総説で述べている。その一方で、解説書の楽曲解説では、「東亜」諸国の音楽に日本音楽と関連する要素を見出そうと努力しているのが興味深い。
各曲の原盤については、ホルンボステルの『東洋の音楽』から8曲が使用されていることは既に明らかになっていたが、今回あらためて調査をしたところ、さらにフランスの東洋パテのレコードから4曲、英コロムビアのレコードから3曲が使用されていることが確定できた。『東洋の音楽』の発売元であるカール・リンドストレームは1926年に英コロムビアに買収されており、東洋パテも1928年に同じく英コロムビアに買収されている。日本コロムビアは、1935年に英コロムビアと原盤供給契約を結んだため、1941年の時点でこれらの原盤を自由に使用できたと推測される。
歴史的音源では20曲中16曲を聴くことができる。
以下はその一部を紹介するものであるが、田辺が各地の音楽に見出した日本音楽と関連する要素についての記述を「 」内に引用した(【 】内は原盤の商品番号)。実際これらの記述は、初めて聴く異国の音楽への橋渡しとしての役割を果たしているのが分かるし、田辺による音楽の「大東亜共栄圏」構想を理解する助けになるだろう。
なお、見出しの地名・曲名はレーベルに印刷されているものを用いた。便宜上、引用部分の旧漢字旧仮名遣いは新漢字新仮名遣いに改めた。
Source gallica.bnf.fr / BnF
原盤は1940年9月、田辺が吉林市の孔子廟の現地調査をした時に録音した雅楽【S-98】。吉林雅楽研究社による演奏。ホルンボステルの『東洋の音楽』への第一の批判が満洲(と蒙古)を欠くことであり、これを巻頭に置くことは田辺にとって政治的に重要であったろう。
解説書にある、「小笙、篳篥(管子という)、横笛、胡弓、提琴、雲鑼を用いて演奏する。高雅優麗なもので、何となく我が雅楽を彷彿せしめるものがある。」(1)といった日本の雅楽との比較は、現地調査時の記録に同じものが見られる。
Source gallica.bnf.fr / BnF
原盤はフランスの東洋パテのレコード【D-3409】。演者は京劇の名優・梅蘭芳。1919年に初来日して日本でも人気があったが、日中戦争勃発以降は日本人が主催する公演に出ることを拒否していたという。
「西洋では女役は凡て女優がやるのを普通として居るが、支那では一般に我国と同様に女役は男子の女形がやることになって居り、特に精練された裏声を用いて美しい女の声を出して居る。」(1)
Source gallica.bnf.fr / BnF
1938年に日本橋三越で行われたモンゴルの展覧会と演奏会を記念して、日本コロムビアが数曲のモンゴル音楽を録音した。この「古歌『牧羊の歌』」【M-9】は、当時日本に留学していた珠克徳爾嘎爾巴(シュクトルカルパ)による独唱。
「之れは蒙古平野に羊を追いつつ歌われる歌で、純然たる蒙古民族の代表的のものである。実に我が国の俚謡の代表的と称されて居るところの松前追分節を聞くのと全く同じ […]」(1)
Source gallica.bnf.fr / BnF
原盤は『東洋の音楽』【Jab-50】。「スンダ婦人」の独唱と紹介されている。スンダとはジャワ島西部に居住するスンダ民族のこと。
「此の旋律を聞くと我が日本の俗謡に多くの類似があり、我が南洋旅行者が偶ま之れを聞いて故国を想い出すと謂われて居る。殊に我が九州の熊本又は薩摩地方俚謡とは一層の類似があるように思われる。」(1)
Source gallica.bnf.fr / BnF
原盤は『東洋の音楽』【Jab-129】。田辺はジャワ島のガムラン(打楽器を中心とする旋律的な合奏)を「宮廷のもの」、バリ島のガムラン(音源6)を「民衆のもの」と位置づける。
「王宮に於ける舞楽は頗る精練されて居て、その優雅なること我が国の雅楽と共通して居るところがある。」(1)
Source gallica.bnf.fr / BnF
原盤は『東洋の音楽』【Jab-557】。楽曲解説では曲名を「印度神話」として「スレンドロ」とルビを振っている。
「バリ島の楽舞は特殊な職業的団体に依て行われるのではなくて、殆んど全島民悉くが之れに関与するのである。それは恰かも我国の農村の盆踊と同じようである。」(1)
〔引用文献〕
〔参考文献〕
ホルンボステル監修『東洋の音楽』を視聴できるウェブサイト
(大阪大学大学院音楽学研究室助教・鈴木 聖子・すずき せいこ)