音源紹介

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※本文中で紹介する音源は、国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館で聴くことができます。



漫才は痺れるほどの感激-戦時下の天才漫才師ワカナ・一郎

関西大学・浦和男

(2022年3月18日掲載)

1.「漫才」の誕生

秋田實

秋田實
(『漫才日記 : 随筆』輝文館, 1940年)

 昭和8年、吉本興業は「掛合万歳」、「高級万歳」と称した演芸を「漫才」という名称に統一した。「漫才」という語そのものは、関東大震災前の東京の演芸界で使用されていたと思われる。そして、ほんのわずかの時間で、「漫才」は日本を「制覇」する。
 昭和10年、近代「漫才」作者第1号となる秋田實が吉本に入社、続いて戦後日本中に温かい笑いを届けたNHKの名作ラジオドラマ『お父さんはお人好し』の作者である長沖一も入社し、秋田、長沖を中心に、おそらく二人の親友である当時の人気作家藤澤桓夫も陰で応援し、大阪発の「笑い」の製造が本格化する。同年、秋田は大阪朝日新聞社会事業団「朝日会館」発行月刊誌『会館芸術』8月号に「漫才の面白さ」を発表し、漫才が二人の世間話に基づく「舞台芸術」であるという見解を述べる。翌11年には、「漫才時代」(『改造』4月号)、「漫才作者の弁」(『新青年』10月号)と、秋田の漫才論が炸裂した。

2.ワカナ・一郎の登場

ミス・ワカナと玉松一郎

ミス・ワカナと玉松一郎
(『主婦の友』主婦の友社, 1938年)

 横山エンタツ、花菱アチャコのコンビが突然の解散をするこの時期に、近代的な「二人漫談」として売り出したのが、ミス・ワカナ、玉松一郎の夫婦漫才師である。
 昭和13年朝日新聞と吉本興業主催の皇軍慰問「わらわし隊」に参加すると、帰国後の報告会で披露したのが『わらわし隊~中支皇軍慰問記念~』であり、この漫才で多くの国民を痺れさせた二人は、売れに売れ出した。この音源は上・下で売り出された。当時の戦闘機部隊の愛称「荒鷲隊」をもじった漫才慰問隊の名称が「わらわし隊」だ。「国を発つ日の漫才は、痺れるほどの感激を、更けて喋ったもこの舌ぞ、今その舌で長城を越えて笑わす『わらわし隊』」の歌で始まるこの漫才に、戦時下の人々の心も痺れた。


 手元にある『ワカナ・一郎 傑作漫才集』に掲載された台本と、レコード附録の台本を比べると、録音時間の関係で若干の違いがあり、オチが変わっている。
 美人のワカナは和服姿、イケメンの玉松一郎はしゃれた背広にアコーディオン、それは和洋の融合、モダンな新しい漫才師の姿であった。芸風は、ワカナが一郎をいじりたおして、自分の美貌を褒めるという、女性が強さを示す「女丈夫」のしゃべくりで、男性上位に対する新しいスタイルの話芸であった。ボケとツッコミの役割が時によって交替するという斬新なしゃべくりに、二人の漫才の名物となるワカナの歌が入る。秋田の考える「舞台芸術」としての漫才スタイルを目指していたことを感じる。
 この話芸のスタイルは、弟子のミス・ワカサが継承し、戦後長らく島ひろしと組んで活躍した。『街頭録音』など二人の漫才も歴史的音源に収録されているので、ぜひ合わせてお聞きいただきたい。

3.読む漫才

『ワカナ・一郎傑作漫才集』表紙

『ワカナ・一郎傑作漫才集』表紙
(画像は浦氏の提供による)

 『わらわし隊~中支皇軍慰問記念~』の台本作者は、おそらく秋田であろう。「皇軍慰問」だからと、秋田たちが軍部に協力的であったとされるが、この音源を聞けばわかるように、決して戦争を賛美しているわけではない。異国で戦う兵士たちの思いを代弁するせりふが入り、それを笑いで明るいものにしている。秋田も長沖も、帝国大学生時代にプロレタリア文学運動に参加し、秋田は『戦旗』の編集にも関わっていたため、「左翼」的発想で軍部への批判があると説かれることもあるが、それもまた誤った見方だ。秋田も長沖も、愛する漫才師たちが戦争に巻き込まれず、戦時下に疲弊する国民に健全な笑いを送り届けることを目指した。思想的な側面を含めて考えると二人の行動を理解することができなくなる。
 明るい笑いを送り出すために、秋田は「読む漫才」も多数執筆した。その一冊『ワカナ・一郎 傑作漫才集』は、著者はワカナとなっているが、ワカナは文字の読み書きが不自由であったから、秋田ら台本作家たちの作品集だ。秋田は、「漫才小説」とも呼ぶべきジャンルを確立しようとしていた。旧制今宮中学からの生涯の友・藤澤桓夫、今宮中学、東京帝大の同級生・武田麟太郎、そして若い友人となる織田作之助ら小説家たちから文学の創作の強い影響を受けていた。彼らもまた、秋田の思いに刺激されている。

4.穐村正治とワカナ・一郎

穐村正治著『猫と紺絣』

穐村はユーモア小説の執筆も行った
(穐村正治著『猫と紺絣』橘書店, 1941年)

 昭和14年春、ワカナ・一郎は突然、新興キネマの引き抜きによって吉本から電撃移籍をした。続いて移籍する芸人も現れ、秋田も新興へ移籍する。この件は裁判沙汰となり、ワカナも証人として出廷し、激しい吉本非難を漫才のようにとうとうと述べ、裁判官を唖然とさせたと報道されている。そのような勝ち気のワカナは芸にも邁進し、ますます人気は高まる。軍部から敵国語的な名前だからと改名を強要されたときも、軍部への批判を述べたが、結局「ミス・ワカナ」から「玉松ワカナ」(ときに「松竹ワカナ」とも)とした。
 新興キネマでの出世作は、昭和14年頃の穐村正治作『全国婦人大会』だ。


 出雲、京都など全国各地の婦人会代表として、各地の方言をみごとにまねて、大会司会役の一郎は口をはさめない。朝鮮半島代表としては、正しいかどうかはわからないが、朝鮮語で演説をする。ワカナは文字の読み書きに不自由した分、耳がすぐれていた。これらの方言をワカナは耳で覚え、正確に再現している。話にオチはないが、ワカナが各地の方言でとうとうとしゃべくりながら一郎をいじくるスタイルに、聴き手は圧倒され、笑い、漫才に痺れた。この漫才で、二人は確固たる地位を獲得する。
 内容的には軍国主義の礼讃だが、方言を使うことによって、笑いへと昇華する。それは軍部への批判ではない。時局下で笑いに餓える人たちが、恐れることなく笑う手段を穐村が考え出したのだ。二人が日常の一コマを切り取って、おもしろくおかしく話すという漫才の形を、より「芸術」的に練り上げる、穐村の力量であろう。この作品はワカナ・一郎の代表作であり、作家の織田正吉は穐村の最高作と絶賛していた。

5.舞台芸術としての漫才

『ワカナ・一郎傑作漫才集』より「ワカナぶし」

『ワカナ・一郎傑作漫才集』より「ワカナぶし」
(画像は浦氏の提供による)

 ワカナが方言を駆使する話芸は、昭和14年9月に発売された『ワカナ放浪記』でも炸裂する。

 今聞くと、オチそのものに笑える漫才ではない。ワカナのしゃべくりの勢い、次々と出てくる各地の方言、品を作ったかよわい女性の声での返答から図太い男の声の脅しというすばやい態度の変化、男性上位の時代に、男性である一郎を徹底的に笑いものにする女性上位の態度、そして美声の歌声、女性のワカナが話の主導権を握る、こうしたしゃべくりの話芸に暗い世の中に明るい笑い声が響く。当時としては画期的な舞台芸であった。テレビのない時代、音源だけで笑いをとるためには、しゃべくりの力量が不可欠であった。
 しゃべくりに歌を交えるスタイルも、舞台芸術としての漫才であっただろう。「歌謡漫談」と説明される『ワカナぶし』では、その美声が冴える。ワカナの歌に続いて一郎へのいじくりが入る。「この洋服、中古(ちゅうぶる)とでもいうんですか?」と反論する一郎に、「そんなこと」と否定しかけて「あり~ま~すわ」と歌ですばやく肯定する、その転換のみごとさに人々は痺れ、一郎が「エッ?」と驚く声に、その顔を思い起こして大笑いをした。漫才師にテーマの歌がつくことは画期的であり、ワカナたちへの入れ込みようがわかる。

6.戦後への影響

ミス・ワカサと島ひろし

ミス・ワカサと島ひろし
(『主婦と生活』主婦と生活社, 1953年)

 昭和21年10月15日、ワカナは西宮球場での出演後、西宮北口駅で心臓発作を起こし急逝、36歳であった。秋田はこの日、博多港の復員船内で上陸待機していた。ワカナの死を新聞で知り、戦後は漫才に関わらないと決意したという。短い人生であったが、戦時下の国民のふさいだ心を笑いで解きほぐしてくれた、その功績を忘れてはならない。ワカナの弟子は、女優の森光子、ミス・ワカサ、一時二代目ワカナを継いだミヤコ蝶々で、ワカナの思いを継ぎ、戦後の混乱期から長らく明るい笑いを日本中に届けてくれた。
 音楽評論家の中村とうようによると、ワカナ・一郎の単独SPレコードタイトルは37本あり、そのうち24本を歴史的音源で聴くことができる。

〔参考文献〕

  • 秋田實. “漫才の面白さ”. 会館芸術. 朝日新聞社会事業団, 1935, 昭和10年8月号, p.12.
  • 秋田實. “漫才時代”. 改造. 改造社, 1936, 昭和11年4月号, p.294-299.
  • 秋田實. “漫才作者の弁”. 新青年. 博文館, 1936, 昭和11年10月号, p.362-364.
  • 玉松ワカナ. ワカナ・一郎傑作漫才集. 金鈴社, 1940, 308p.
  • 中村とうよう. “レコードの裏おもて”. レコード・コレクターズ. ミュージック・マガジン, 1991, 10(12), p.92.

(関西大学・浦 和男・うら かずお)

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